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『猫を抱いて象と泳ぐ』

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小川洋子著
『猫を抱いて象と泳ぐ』
(文藝春秋、2011年)
本作著者、小川洋子さんといえば僕と同じ1962年の生まれですが、個人的には30年くらい前、新進気鋭の作家として『妊娠カレンダー』で芥川賞を受賞された際に、それを読んで、自分にはまったく合わないな~と感じて以来、なんとなく読むのを避けていた作家さんでもあります。しかし、そんな読まず嫌いを続けているうちに、僕が今年還暦ということは彼女もまたそういうことで、いつの間にやら芥川賞に選ばれる側から、選ぶ側の大先生になっていました。


そんな僕が小川作品である本書を読んだのは、当ニュースレター読者のO氏からの推薦がきっかけです。数号前の巻頭コラムで将棋の藤井聡太竜王の人間離れした能力(脳力)について書きましたが、それに対してO氏から素晴らしく感動的な(!)感想をいただきました。O氏はその中で、将棋にまつわる推薦図書(本作はチェスですが)もいくつか挙げてくださり、その中の一冊に本作がありました。このタイミングを逃すとおそらく一生、小川洋子を読むことはない。そういう直感もありましたので、まず本作から読むことにしたのでした。
『妊娠カレンダー』以来、およそ30年ぶりに読んだ小川作品。率直に言うと、こんなスケールの大きい作家だったのか!と驚かされました。あの作品にその萌芽を見抜き芥川賞を与えた、当時の選考委員の方々の慧眼ぶりがここに証明されています。そして、僕の目の節穴ぶりも……
本作はヘルマン・ヘッセあたりの作品を思わせる、主人公の内面的成長と、魂の彷徨を描いた正統派純文学です。しかし、舞台となる時代、場所、さらには登場人物の本名すら明かされておらず、この世ではないどこか別の世界を描いているような、幻想的な雰囲気が作品全体を包みます。
唇に産毛をもつ主人公の少年は、バスに住む巨漢の「マスター」の導きによりチェスを知り、その才能を開花させる。しかし、チェス盤の下でしか実力を発揮できない彼は、表舞台には立たず、“リトル・アリョーヒン”というからくりチェス人形の「中の人」になりチェスを指すことになる……
実在したというチェス人形に着想を得て、それをこのイマジネーション豊かな作品世界に昇華させた著者の作家としての手腕には舌を巻きます。しかし、小川洋子という作家の本領は、このような部分もさることながら、おそらくその日本語表現それ自体にあるのだとも感じます。本作はチェスという盤上(および盤下)が舞台です。将棋もそうですが、我われ非才の者には無味乾燥な記号にしか見えない棋譜にプロは様々なイメージを読み取ります。それがどういうイメージであるのか。プロに訊ねてもおそらく僕ら素人に納得のいく答えは返ってこないでしょう。それは現存する普通の言葉では語りえないものだからです。しかし、小川さんは本作において、言葉の深い海に潜りこみ、さらにその地底を掘り起こし「語りえないもの」という鉱脈の発見に努めます。それは「盤下の詩人」リトル・アリョーヒンが――猫のポーンを抱き、象のインディラと泳ぎながら――8×8の盤上に存在する10の123乗の棋譜の中から、これまで誰も見たことのない美しい物語を導き出していくのとまったく重なり、彼が指す一手一手が、小川さんの筆致とシンクロして読者の心に迫ります。ここに小川洋子という稀有な小説家の、作家としての生理とスケールを感じるとともに、日本語表現の最前線を見たような思いにかられました。
ここまで柄にもなくずいぶん小難しいことを書いてしまったような気もしますが、本作はチェスを知らない方が読んでも十分楽しめるものですので、僕のように読まず嫌いせず、ぜひ、この美しくもはかなく残酷な小川洋子ワールドを堪能あれ。Oさん、素晴らしい本をご紹介いただきありがとうございました︕

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